神という生き方

 本日の「世界遺産」はカトマンズの生き神についてでした。仏教徒の娘から一人選んで神とし、祭りの時以外家を出ずに、人々から参拝され、崇め奉られる。それは初潮を迎えるまで続く、と、そういうことらしいです。
 日本にある考え方に、「女性」というのは血を以て象徴とされる、というものがあります。漁師が女性を舟に乗せない、相撲の土俵に女性を上げないこと等。日本では女性の「血」は「穢れ」を示すということです。女性差別とか言うのは不粋なのでやめましょう。穢れ信仰とかもありますので。
 カトマンズの生き神様というのは「人間外」を指しているのでしょう。潜在的に初潮前の少女は皆神様である、後に初潮という血を迎えると、人間になる。逆説的に言うと、血を流さない女性は人間ではないのです。TVではそこまでの説明はありませんでしたが、私は自分の解釈に確信を持っています。(ちなみにこれは考え方の解釈の話であって、カトマンズの民皆がそう信じているとかそういうことではないです。)

 放送された生き神の中に、齢52歳を数える神がいました。彼女は2歳で神となり、それから50年間神として生きています。彼女は初潮を迎えることが無かったのです。皮肉なことに、彼女は15歳の時、公式には神の任を解かれますが、彼女は自分が神であることを信じ、神としての50年の時を過ごします。
 彼女はこう思ったのでしょう。「他の生き神は皆『人間』になっていく、だけど私は神のままだ」と。(そういう意味で、カトマンズでも女性の月経は一種の穢れなんだろうと思います。神は人間の上に位置されるものだし、血を得ることにより人間に墜ちる、という)
 放送を見た人々は彼女の人生についてどういう感想を抱くのだろうと思いました。可哀想だと思うのか、バカだと思うのか。それとも彼女の選択を尊重するのか(ザ・個人主義) 
 私は50年を神として生き、50年の大半を屋内で生きた彼女は、少なくとも彼女の価値観において幸せなんだろうと思うのです。自分の役割を信じて、それに殉ずるということは、そういうことではないでしょうか。